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日常のなかで安全を守るのは、それほど簡単なことではなくなりつつあります。
ニュースなどで犯罪と聞いても、自分とは関係のないもの、自分とはかけ離れた出来事のように思う人がほとんどでしょう。
しかしながら、犯罪は、なんの前ぶれもなく、あなたのごく身近、あるいはあなた自身に起こります。誰もが犯罪の被害者となる可能性をもって暮らしているのです。犯罪は、予想もしないときに、突然、身に降りかかってくる厄介な代物なのです。
警察庁が発表した二○○○年一月から十一月までの「犯罪情勢」によれば、刑法犯の発生は二二二万八五六七件(前年比一二・五パーセント増)と過去最悪、検挙率もこれまででもっとも低い二四パーセントでした。
こうした刑法犯のなかには、「生活のなかの犯罪」と呼べるものが数多く存在します。
「平成のカギ破り」ともいうべきピッキング窃盗、ストーカー事件、盗聴1.これらの「生活系犯罪」は、私たちが市民としてごくふつうに暮らすなかで起こります。
こうした犯罪から身を守り、財産を守ろうとするとき、私たちがもっとも頼りにするのは警察でしょう。社会の治安を守るために法治国家には「警察」という機能が備わっています。ところが、警察は、これから起こる犯罪を取り締まってくれるわけではありません。行為が犯罪という結果になったときにはじめて出動し、取り締まるものです。「予防行動」をとるのではなく、ほとんどの場合、「結果行動」になってしまうわけです。警察とはもともとそういうものですから、文句は言えません。
実際のところ、犯罪の予防を警察に頼るのはむずかしく、「防犯」はむしろ私達がみずから考えなければならないテーマなのです。
日本はもはや「安全」ではない
かつての日本では「水と安全はダダ」といわれました。河川に恵まれた日本では、水にかかる費用がめっぽう安く、それと同様に「安全」はダダ同然で手に入るというわけです。一般人が足を踏み込めないような危険な場所はほとんどありません。検挙率や凶悪事件の発生数など、犯罪と治安に関する統計データも、諸外国と比べて日本が「安全」であることを裏づけています。
しかし、そうした「安全神話」ともいうべき状況が、このところ急変しつつあります。さきほどあげたピッキング窃盗の多発も、その一例です。
留守を狙っての窃盗を「空き巣狙い」といい、本書でもこの呼称を使っていますが、この「空き巣」という言葉にはどこかまだ”のどかな”雰囲気があります。日本が実際に「水と安全はダダ」だった時代の呼び方のような気もします。
第六章「空き巣の生態学」で紹介した侵入犯の輪郭は、いくぶんそうした古いタイプに偏ったきらいがあるかもしれません。
現在のピッキング窃盗は、「空き巣狙い」などとは呼べない、もっと凶悪なものです。私たち日本人がかつての平和な社会で培ってきた「泥棒」や「空き巣」のイメージとはまったく異なる犯罪者たちが、現在の日本に棲息し、犯罪の機会を狙っているのです。
家宅侵入による凶悪な事件が頻発しているのが、その証拠の一つでしょう。
二○○○年十二月、東京・板橋区で起こった強盗殺人事件では、犯人の若い男は、金がなくなったので、ひったくりでもしようと町をうろついていたとき、以前にストーキングして突き止めていた若い女性の一人暮らしの家が近くにあったことを思い出し、侵入。顔を見られたので殺害に至ったということです。これなどは、ストーキングという現代的な犯罪と家宅侵入による窃盗が合体して、強盗殺人という最悪の事態に至ったということになります。
また、二○○○年十二月末には、東京・世田谷で一家四人が包丁で惨殺され、現金が盗まれるという事件も起きました。この原稿を書いている時点で、まだ犯人は見つかっておらず、動機さえ判明していませんが、いずれにせよ痛ましい事件です。